POPCON

日本のミュージックシーンをリードしたイベント、POPCON (POPULAR SONG CONTEST)。当時の思い出から、現在も活躍しているアーティストの特集まで、ポプコンのすべてがここに!



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風コーラス団

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Profile
1973年 第5回ポプコン出場
1974年 第7回ポプコン「まいだち」で入賞受賞
同年、1stAL「愛色の季節」リリース。

宇野 博信 (Vo、FG、PERC、MC)
浦田 博信 (Vo,FG)
田中 テルキ (Vo,Bass)
水野 隆志 (Vo,FG,Harp)
木村 恭子 (Vo)


「愛色の季節/風コーラス団」
宇野 博信(Vo、FG、PERC、MC)さんのコメント

「風コーラス団とは」
1973年ぐらいに財団の大阪支部が、POPCONの譜面応募用に演奏グループを作りました。大阪のグループのいくつかに声をかけて、最初は8-9人の編成で地区大会のゲストコーナーで、それまでの参加曲を歌ったのが最初です。
当時高校生だった庄野真代も居ました。会を重ね、練習と目標をはっきりさせるためメンバーが絞られたわけです。

曲は、POPCON応募楽曲以外はメンバーのオリジナルで活動していました。
アレンジもメンバー全員でやっていました。
POPCONの曲は、元5つの赤い風船の「東 祥高」氏が担当していました。

水野と木村以外は、全て違うグループ出身で、 地区大会のゲストや、エレクトーンのツアーのバックコーラスなどの仕事をした後ヤングオーオー(tv)の今月の歌(3ヶ月間)を歌っていました。 そのあたりで、レコーディングの話しとなり、1974年にAL「愛色の季節」リリースの運びとなったわけです。1975年の第9回POPCONでエントリーした麦畑を、最終作品として1976年に解散しました。

結構旅もあったので、卓上マージャンは必需品で電車の中でよくやっていました。

現在 宇野は専門学校の講師
浦田はアレンジャー
木村は作曲とVoの先生
水野は焼き鳥屋とライブ活動
田中はサラリーマン

目標がはっきりしていたので、あまりメンバーでもめることはなかったですね。

木村恭子(Vo)さんのコメント

「そもそもは関西フォーク全盛のころ各サークルや連盟で アマ、セミプロ活動をして活躍していた者が ヤマハのプロジェクトに呼び集められたという形で結成されました。」

私は水野隆司と亜雲土を結成していて(大阪と福知山に離れた状態で) たまたま私の地元の楽器店で作品を披露したところヤマハの目にとまりそのまま関西四国決勝にまでつながることになるわけですが、その場に浦田博信が 審査委員として来ていたという余談も。

そのころの応募システムはよく判りませんが決勝には亜雲土で 水野の作品と私の作品「夏の光の中で」で二作品をエントリーしつつ、もと赤い風船のメンバーだった「東 祥高」の監修で宇野博信、田中照起、浦田博信、水野隆司、木村恭子が集められ各地区予選のときにゲスト演奏というかヤマハ楽曲のデモンストレーションを行なうための合同バンドを結成(たしか風コーラスと夢見るバンド) 当時は「庄野真代」も加わってました。

そして「夏の光の中で」が合歓本選会に出場することとなり、そこで東が風コーラス団で出場するからね、と初めてこのレコーディングメンバーに 整理されたわけで木村恭子は正直、勝手に話が進んでるな?という 印象をうけたのを憶えています、亜雲土が吸収合併されたわけですから(笑)

第5回POPCON本選会で「キャニオン賞」を受賞しそこから 本格的にグループのオリジナル活動が開始されてゆきました。

まずは作品をつくりためるために合宿もあり混声のアレンジをほどこし 担当楽器も振り分けられました、全員がギターを弾き歌い作品を持ち それぞれの活動のバンドではリーダー的存在で活躍してましたし実力もあったと思うので 作業は大変ながらも、まずは着々と進んではゆきました。 仲良しこよしがバンドをやろうと集まった訳ではないのですが 個性のぶつかりを楽しみ決して繊細で美しいだけでは無いコーラスバンドを 目指したと思います、近いところではCSNYかな??? ヤマハとしてはハイファイセットのようで、じゃないグループを 作りたかったようですが・・・。
ちょっと泥くさく重みもありましたね(~。~;)

その後もPOPCONにはそれぞれメンバーの作品がエントリーされ 毎回本選に出場し、また譜面の部といわれる他作品の演奏もし 何曲も予選会で歌ってました。 (いま思えばなんでもありだったのですね、、、) そしてアルバム制作の話となり「愛色の季節」でレコードデビューを果たすのですが それもどういういきさつでその話になったのかは判りませんが実験盤(?)という話をチラと耳にした気がします・・・。 ポップなアルバムを作るという前提で風コーラス団を使ったという感じですね?! でも細野晴臣氏や吉野金次氏に会えるのですからやっぱりこれは ミーハーしましたね!!! いちど音の打ち合わせで吉野さんのマンションにおじゃましたとき コーヒーを出して下さった女性がいらして、あとでそのひとが 吉田美奈子さんと判明しあららら~した記憶があります。

デビュー後はプロモーションのため衣装も揃え写真も撮り果てはステージで 振りをつけるところまでやったのですが、ここら辺で無理も生じたかと思います。
そして一年のヤマハとの契約切れをつきつけられ、元々音楽の方向性の違うメンバーでしたから(でも仲良しになったなぁ・・・)ならばと円満解散しました。

その後の私の活動としては、 田中輝起は「亜雲土」を結成し「ねぇピーター」で 第7回世界歌謡際に出場、亜雲土自然消滅後、私は第8回世界歌謡際で 歌唱賞を受賞。 その後浦田博とスタジオワークやライブなどで活躍、 共に交流をかさね関西音楽シーンをリードしてきました。 またCM業界にさまざまな作品をおくりだしCDも発売しています。

1992年には二人の交流記念ともいうべきインディーズ盤を発売。 「流れ着きし者の詩/Jaran-Jaran」 ボーカリストとして格段の実力を誇るふたりのアジアへの思いのつまった アルバムは風コーラス団時代からの歴史を感じさせる作品となっている。

水野は東京でかわらず泥っぽいライブをやってるとか? 田中はファミリーバンドでライブをやってるとか? 宇野は専門学校の先生かな?
というわけで風コーラス団の顛末記でした。
おそまつ、、、!


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